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高玉山 正蓮寺

正蓮寺の歴史

浄土真宗本願寺派 正蓮寺略縁起 -開基-

正蓮寺は高玉山または向月山と号し、浄土真宗本願寺派に属する寺院である。

この寺の開基、釈明寂は前田藤四郎宗祐の息で、長門国豊浦郡前田村の人、藤四郎は文治元年(1185年)3月安徳天皇に従い、壇ノ浦御裳裾川で戦死した平宗行の五代の孫にあたる。

浄土真宗本願寺派 正蓮寺略縁起 -開基-

彼は大永3年一子をもうけたが、その子は幼時より才智殊の外すぐれ、父母之を愛愍し、豊前国企救郡楠原村の天台宗王明山向月院起福寺(正蓮寺の前身)祥雲法師の徒弟となり、剃髪して法名を慈雲と称した。

慈雲才学日に進み、仏典の奥義を究め、天文16年(1547年)25才にして師の後をつぎ、権律師に進んだが、その後感ずるところあり、寺務を法弟義淳にゆずり、その身は諸国を行脚して出離解説の良因を求め、終に肥後国熊本西光寺において、易行他力の源底を聴き浄土真宗の安心を領解した。

浄土真宗本願寺派 正蓮寺略縁起 -開基-

慈雲は、同国玉名郡分田村にしばらく草庵を結んでいたが、元亀元年(1570年)本願寺十一代顕如上人、諸国の門徒に檄文を送り、挙兵して織田信長と戦端を開くや、彼は法名を明寂と改め、西光寺に従い大坂石山本願寺に篭城すること6年、数度の合戦に軍功があったため、元亀3年8月17日顕如上人より阿弥陀如来の尊像一体を賜ったという。

明寂、天正3年(1575年)下向、旧里起福寺の檀徒を教化しようと楠原村に至れば、元亀2年兵火のため門司城は落城、起福寺も破却されていた。

そこで同村法師庵に仮り住いしていた義淳法師を尋ね、師弟同室に起臥し、宗旨を真宗に改め、専ら弘願の捷径を説き、仏恩報謝の生活に余念がなかった。

明寂は天正18年2月2日(1590年)入寂。
行年68才であった。

その後三代目高玉は寺地を同村「中の殿」の現在地に移した。
貞享3丙寅年11月5日領主小笠原氏より、更に元禄4辛未年5月(1691年)本願寺より正蓮寺の寺号が免許された。

尚山号の向月山は起福寺の院号にちなんだもの、また高玉山と称したのは、現在の寺地を定めた三代高玉の功をたたえるために、その法名を山号としたものと考えられる。

正蓮寺略年表

一五七五年 明寂正蓮寺を開基す(天正三年)
一五九〇年 明寂歿す(天正十八年)
一六〇〇年代 三代高玉 法師庵より現在地に寺地を移す
一六八六年 領主(小笠原氏)寺号を免許(貞享三年)
一六九一年 本願寺、寺号を免許(元禄四年)
一八一八年 石橙双其志納(文化十五年)
一八三二年 手習弟子 十代映芳の塚を建てる(天保三年)
一八四六年 本堂造立(弘化三年)
一八五四年 十一代 等忍歿す(安政元年)
一八五五年 十二代 竜嘯島原堂崎称名寺より入寺(安政二年)
一八六六年 豊長戦争で田野浦に上陸した奇兵隊の攻撃を受け本堂大破(慶応二年)
一八七二年 戸籍法が定まり、新戸籍が出来たとき、竜嘯、「徴」姓を名のる。
仏教の声明の五音(宮・商・角・徴・羽)の一つ徴を選ぶ(明治五年)
一八七七年 十三代 竜渓 竜嘯と同じく称名寺より入寺(明治十年)
一八九六年 軍馬塚建立(明治二十九年)
一八九七年 十二代 竜嘯歿す(明治三十年)
一九〇七年 庫裏を建てかえる(明治四十年)
一九〇九年 本堂炎上(明治四十二年)
一九一二年 本堂再建(大正三年)
一九二三年 大谷尊由猊下九州ご巡教の祈り、お立寄りになる(大正十二年)
一九二五年 九条武子夫人北九州ご巡教にあたり、お立寄りお泊りになる(大正十四年)
一九三三年 白木崎説教所 泉正寺になる(昭和九年)
一九四〇年 十三代 竜渓歿す(昭和十六年)
一九四五年 戦災のため本堂庫裏鐘楼焼失(昭和二十年)
一九五四年 十四代 竜邦歿す(昭和二十九年)
一九六五年 鉄筋コンクリート造りで本堂再建
宗祖七百回大遠忌法要をつとめる(昭和四十年)
一九七六年 本堂改修、第二廟堂新築鐘楼再建
宗祖御誕生八〇〇年慶讃法要をつとめる(昭和五十一年)
一九九五年 本願寺二十四代即如門主ご巡教(平成七年)
二〇〇九年 蓮華廟堂新築(平成二十一年)
二〇一二年 十六代 邦雄歿す(平成二十四年)
二〇一八年 本堂改修
宗祖七百五十回大遠忌法要をつとめる(平成三十年)
二〇二〇年 十五代、十七代 哲雄歿す(令和二年)

歴代住職

初代 明寂
二代 義淳
三代 高玉
四代 了清
五代 了喜
六代 了伝
七代 月山
八代 知悦
九代 南渓
十代 映芳
十一代 等忍
十二代 竜嘯
十三代 竜渓
十四代 竜邦
十五代 哲雄
十六代 邦雄
十七代 哲雄
十八代 一彰